汗牛未充棟

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宮澤伊織『裏世界ピクニック6 Tは寺生まれのT』――【コラム】つまりTさんは何をしにやってきたのか

 寺生まれのTさんは何をしにやってきたのか。それはもちろん「破ぁ!!」で怪異を退治するためであり、『裏世界ピクニック』最新6巻においては、裏世界に関わってしまった人の記憶を「破ぁ!!」で封印するためにやってきたに決まっています。
 しかしメタ的な視点で見ると、今回登場したTさんの最大の功績は、空魚の裏世界に関わる記憶を封印したこと。すなわち空魚の鳥子に関わる記憶を封印したことにあるのではないでしょうか。それは結果的に、空魚と鳥子の関係を改めて問い直すきっかけとなりました。
 記憶を失った空魚に二人の関係性を尋ねられて、鳥子は「この世で最も親密な関係」と答えます。その言葉と鳥子の振る舞いから、空魚は「もしかして、私たち、付き合ってたりした?」と口にしてしまいます。しかしこれは、鳥子にとっては明らかに地雷な台詞でした。
 
 そもそも「この世で最も親密な関係」という言葉を最初に口にしたのは鳥子ですが、二人の関係をそう規定したのは空魚の方です。以前書いたブログ*1でも引用した場面ですが、夜の裏世界で最大の危機を乗り越えた二人は、次のような会話をしています。
 
 「空魚、好きだよ。わかってる?」
 (中略)
 「わかってるよ。私をなんだと思ってるの」
 「……こ、」
 「この世で一番親密な関係、でしょ。鳥子が自分でそう言ったんじゃない」
 今度は何も言わずに、鳥子が私を強く抱きしめた。*2
 

 

 これは完全に私見になってしまいますが、鳥子が「こ」の後に続けようとした言葉は、空魚とは違うものだったかもしれません。例えば「恋人」のような。少なくとも鳥子の側に、空魚とそうなりたいという気持ちがあることは間違いないでしょう。
 空魚もきっとその気持ちを察しているはずですが、鳥子との関係性を「この世で最も親密な関係」すなわち「共犯者」だと言葉にし、鳥子もそれを受け入れました。
 ここで勘違いしてはいけないのは、空魚にとっての「共犯者」が決して「恋人」に劣るような関係性ではないということです。そもそも空魚にとっては裏世界のような未知の世界を、誰にも邪魔されず一人で探索することが目的でした。そんな空魚の世界に唯一受け入れ、欠かせない存在となったのが鳥子という「共犯者」です。
 その特別さは例えば、裏世界由来の現象に巻き込まれた茜理を同じく共犯者にしようとした鳥子に対して空魚が言った「共犯者はいや。絶対いや。やめて」*3という言葉にも表れています。
 互いに唯一無二の存在と感じてはいますが、鳥子が向けてくる類いの感情を受け止める覚悟は、まだ空魚にはないのでした。
 
 そんな中で空魚の口から放たれる「もしかして、私たち、付き合ってたりした?」「え、だって、この世で最も親密な関係ってことは......恋人とか、なのかなって」(p.38-39)という言葉は、ある意味で鳥子が最も欲しかった言葉であり、いくら記憶喪失とはいえ無神経にそれを口にしてしまった空魚は、ビンタされるのもやむなしといったところでしょうか。
 このことがきっかけになって、かどうかはわかりませんが、ファイル17の斜め鏡の一件もあり、6巻では鳥子の好意に誠実に向き合おうと努力する空魚の姿が見られました。
 
 さて、ここでタイトルに戻ってTさんは何をしにやってきたのかですが、空魚と鳥子の関係に揺さぶりをかけ、特に空魚に二人の関係について客観視させる役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。
 欲を言えば「破ぁ!!」をされた鳥子に対して空魚がどう振る舞うのかも見てみたかった気もしますが、閏間冴月とも出会う前の鳥子の姿が描かれるのは、少し怖いような気もします。

*1:季節は冬、関係性も裏世界の恐怖も加速する!――宮澤伊織『裏世界ピクニック4 裏世界夜行』 - 汗牛未充棟

*2:宮澤伊織 , 裏世界ピクニック4 裏世界夜行 , 早川書房 , 2019 , p.329

*3:宮澤伊織 , 裏世界ピクニック2 果ての浜辺のリゾートナイト , 早川書房 , 2017 , p.221