汗牛未充棟

読んだ本の感想などを中心に投稿します。Amazonリンクはアフィリエイトの設定がされています。ご承知おきください。

森博嗣ワールドのジャンクション――『四季』シリーズ

 重大なネタバレを踏む前にいい加減『χの悲劇』を読もう。しかしそのためにはGシリーズを最初から、いやそれ以前に遡って読み直さなければ。――そう思って先日『すべてがFになる』と『有限と微小のパン』を読み、そして『四季』シリーズ全4冊も読破した。つまり真賀田四季関連をサラッとおさらいしようと思ったのである。
 
 四季シリーズを最初に読んだのはおそらく中学生の頃。もう10年近く前だろうか。『春』のあらすじを読むと、うっすらと作中の場面を思い出せる。しかし夏以降の物語はまったく思い出せなかった。どんな展開だったかと読み進めてみると、もう驚きの連続。他シリーズのキャラクタが大集合で、しかも重要な設定が続けざまに開示されていくのであった。
 どうしてこんな衝撃の作品の内容を忘れることができたのか、自分の記憶力に逆に驚かされる。しかし、百年シリーズやWシリーズを読み終えた今だからこそ、すんなりと理解できるということもあるのだろう。
 
 
四季 春 (講談社文庫)

四季 春 (講談社文庫)

 

 

 『春』は四季の幼少時代から13歳になるまでが描かれる。物語の視点は四季ではなく、四季と行動をともにする「僕」。彼は自分が透明人間であり、体に巻かれた包帯を取れば誰にも見られないのだと独白する。そんな二人が四季の叔父である新藤清二の病院内で、密室殺人事件に遭遇する。そして更に読み進めていくうちに「僕」の語りはだんだんと違和感を伴いはじめるのだった。
 1巻目の『春』では四季の家族についてや、『すべてがFになる』において四季の書置きに登場した名前「栗本基志雄」と「佐々木須磨」についても、その原点が分かる。
 
 
四季 夏 (講談社文庫)

四季 夏 (講談社文庫)

 

 

 『夏』は二つのエピソードで構成されている。前半は13歳になった四季が叔父の新藤清二と遊園地を訪れるエピソード。遊園地内で誘拐される四季であったが、その犯人とは?そしてどのような目的があったのか。保呂草、林、祖父江などVシリーズのキャラクターが続々と登場するこのエピソードは、Vシリーズの謎を開示する重要なエピソードだったようだ。Vシリーズの記憶はもうほとんどなくなってしまったが、魅力的なキャラクターたちにもう一度会いに行きたいと思えた。
 後半は『すべてがFになる』に至る物語。四季の両親が殺害された妃真加島の事件の経緯が明かされる。
 

 

四季 秋 (講談社文庫)

四季 秋 (講談社文庫)

 

 

 『秋』では時代がとび、S&Mシリーズ終了後の西之園萌絵犀川創平が登場。真賀田四季に導かれ、彼らは『すべてがFになる』では語られなかった事件の真相にたどり着く。『F』は森博嗣のデビュー作だが(出版順においては)、如何に重要な事件だったかが分かる。
 また、萌絵と犀川の関係の進展にも注目したい。なんだかんだはぐらかされてしまったが、その指輪はどういうつもりなんですか、犀川先生!
 
 
四季 冬 (講談社文庫)

四季 冬 (講談社文庫)

 
 『冬』では基本的に『秋』よりさらにあとの時代のエピソードが紡がれるが、時系列がバラバラになっているため、いったいどの時点のお話が展開されているのか判然としない。しかしそれでこそ、時間と空間から乖離した真賀田四季が表現されているといえるだろうか。この『冬』で久慈博士が登場し、百年シリーズとの繋がりが示されている。
 
 
 2019年というこのときに四季シリーズを読むことで注目されるのはWシリーズとの繋がりだろう。Wシリーズの舞台は近未来であり、不死と引き換えに生殖能力をなくした人類が、ウォーカロンという人間とまったく区別のつかない人工生命体と共に暮らしている。Wシリーズ第1作『彼女は一人で歩くのか?』の発売は2015年だが、2003年にノベルス版が発売された四季シリーズにWシリーズに繋がるような記述が見て取れるのだ。
 例えば『夏』以降四季と繋がりを持ったロバート・スワニィ博士は遺伝子の権威であり、四季が既にそちらの分野に関心を示していることが分かる。また『夏』には次のような四季の独白がある。
 
新しい生命など産まずに、ずっと生き続ければ良いのに。
もしそれが可能になれば、人はもう子どもを産まないだろうか?

 

 また『冬』においても、構築知性のゴールは人間になることであり、将来的に機械が人間になると述べている。これこそまさにWシリーズで描かれているテーマではないだろうか。
 
 森博嗣がどの段階からWシリーズの構想を持っていたかは定かではないが、何年も昔から技術の発展を見通しており、実際に年月が経って様々な技術が現実のものとなっても、その見通しがブレないということが、先見の明の確かさを物語っているように思う。
 果たしてあと何年で経てば、現実が森博嗣に追いつくのだろうか。