例えば『パーフェクトフレンド』(2011)では「友達とはなにか」、『タイタン』(2020)では「仕事とはなにか」、といったように、「人それぞれの定義があるよね」と言ってしまいたくなるような命題に対して、物語を通して強力無比な”答え”を提示してきた野﨑まど。
小説現代2024年10月号で公開された最新長編『小説』では、その限りなくシンプルなタイトルが示す通り、「小説とはなにか」「小説を読むとはどういうことか」という命題を解き明かそうと試みる。
物語の中心となるのは内海集司と外崎真の二人。
小説をきっかけに友人となった二人は、小学校に隣接するモジャ屋敷の主人、小説家の髭先生の蔵書を読み漁る幸福な少年期を送るが、やがて文才の有無が二人の進む道を分かつこととなる。
あらすじの紹介はこの程度にして、ここでは本作の特徴的な構成について、一読者として考えたことをまとめてみたい。
(以下、物語の核心に触れない程度のネタバレが含まれます。)
この『小説』は、章分けがされておらず、さらには行間を空けて場面の転換を示すような箇所もなく、ほとんどひとまとまりの文章で構成されている。
だからといって最初から最後まで一つの物語の流れが途切れることなく続いているのかというとそうでもなく、むしろ視点人物も作中の時間も頻繁に移り変わる。
そういった視点の移動がなんの前置きもなく急に行われるので、読み進めていくと度々驚かされることになる。
それではなぜこのような構成になっているのか。
最初に考えたのは、作中の内海や外崎のように読書に集中して、一気に読んでもらうための仕掛けなのではないかということだった。
読書に集中していて、先の展開が気になるあまり、章が変わるタイミングで一息つくこともせず、まるで章変わりというワンクッションがなかったかのように、前後の文章を続けて読んでしまうような経験は、誰しも心当たりがあるのではないだろうか。
本作の構成は、そういった読み方へと読者を誘導するためにあるのではないだろうか。
実際に、本作の頁数も集中すれば一気に読める程度のものであり、終盤の展開もあまり間を置かずに読んでこそ、最大の感動を得られるような内容だった。
しかし最後まで読んで、その仕掛けの意図はもっと別のところにあるのではないかと気が付いた。
序盤はあくまでも主人公である内海の周囲から離れなかった視点が、あるとき急に、これまで作中に影も形も見せなかった第三者の視点に移動する。
いったい何事かと思って読み進めていくと、やがてその第三者が内海と関係のある人物だったことがわかり、本筋へと合流し作品のカメラは内海とその周辺を映し出すようになる。
こうした急な視点の移動と、その後の本筋への合流はこの後も度々起こるのだが、視点の移動前と移動後のギャップは段々と大きなものになっていく。
具体的には、最初は内海と同時代の人物を映していたカメラが、やがて歴史上の人物を描写するようになり、そして内海の視点へと戻っていく。
前よりも遠くへいってはまた元の位置に戻ってくるその様はまるで、重いものを放り投げるときに腕を前後に振ることで、徐々に遠心力を溜めていく動作を思わせる。
そして終盤、視点が宇宙の始まりにまで遡ったことで、ギャップが最大になったかと思われたが、その振り幅すらも推進力に変えて、物語はさらに遠くへと読者を連れていく。
通常の話運びでは、もしかしたら唐突すぎて受け入れられなかったかもしれない展開でも、少しずつ読者を振り回していくことで突飛な展開に飛び込むための準備を整えさせることができる。
一連の仕掛けはそのためのものだったのではないだろうか。
そうしてたどり着いた未知の領域で、作中の登場人物は「小説とはなにか」「小説を読むとはどういうことか」という問いの答えを得る。
その答えを我々読者はどう受け止めるのか。読者好きにこそ読んでほしい一冊だった。