汗牛未充棟

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S&Mシリーズ最終章!巨大テーマパークを舞台に”天才”が再び姿を現す――森博嗣『有限と微小のパン』

有限と微小のパン (講談社文庫)

有限と微小のパン (講談社文庫)

 
  しばらく積んでいた森博嗣のGシリーズを読みだす前に、真賀田四季の足跡を改めて読み直した方がいいかもしれない。そう思って『すべてがFになる』に続いて数年ぶりに本書を手に取った。本当なら出版順に森博嗣作品を読み直すのが一番良いのだろうが、さすがにそれほどの覚悟は決められなかった。
 
 S&Mシリーズ第10弾の本作はシリーズの最初の作品『すべてがFになる』で登場した天才プログラマ真賀田四季が、事件の影で暗躍する。あらすじは次のとおりである。
 

〈あらすじ〉

 西之園萌絵と彼女の友人である牧野洋子、反町愛は、犀川ゼミのゼミ旅行の目的地である長崎のテーマパークに前乗りしていた。それというのも、テーマパークを運営するソフトメーカの社長が萌絵の許嫁であり、その彼に招待されたのである。しかし、ソフトメーカ・ナノクラフトの研究所に案内された萌絵はそこで真賀田四季に遭遇し、さらに教会内で見つかった死体が浮きあがって、ステンドグラスを突き破ってどこかに消えるという奇妙な事件に巻き込まれる。同日犀川真賀田四季からのメッセージを受け取り長崎へと急行する。テーマパークを舞台に虚飾で彩られた事件の幕が上がる……。
 

〈”天才”〉

 文庫にして900頁近い物量があり、その中で不可解な事件の謎はもちろん、許嫁という存在が現れた犀川と萌絵の関係値の変化や、真賀田四季との対決など見どころが詰まっている。その中でキーワードとなるのはやはり「天才」だろうか。作中ではナノクラフト社長の塙理生哉によって、天才について次のように語られている。
 
「人格だけじゃない、すべてに概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです」
 
 凡人には天才の思考など想像もできないが、それでも真賀田四季の、そして犀川や萌絵の気持ちを読み解こうとするのであれば、この考え方が参考になるのかもしれない。
 
 
 

 〈以下、ネタバレ感想〉

 
 
 そもそも真賀田四季の足跡を追うというつもりで本書の再読を始めたため、真賀田四季の目的、動機はなんだったのかと考えてしまう。
 塙理生哉には許嫁であり、株主である萌絵の気を引くという理由や、実験のためという理由があっただろう。新庄久美子にも愛憎や損得勘定に基づく理由があったのであろう。ここまでは凡人の想像が及ぶ範囲とも言える。
 では真賀田四季の動機はなんだったのか。犀川は作中で「遊んでいる」と評し、また「コンピュータも、ほかの人間の頭脳も、さらに偉大なる頭脳の、有限かつ微小な細胞に過ぎない」「自分の頭脳を拡大し増強する。それ以外に、生きている目的はないだろうね」と述べている。
 また真賀田四季本人は、萌絵の思考と感情の飛躍が「万華鏡のようにきれいなランダム」と述べている。また、今でいうAR上の存在として犀川接触した時は、犀川と一緒に歩くためだけに膨大なシステムを作らせたと述べている。萌絵の思考と感情の飛躍が見たいというのも、犀川と一緒に歩きたいというのも、行ったことの規模にくらべたら、それこそ遊んでいるかのような小さなことに思える。
 犀川と海辺を歩いた真賀田四季は今生の別れのような言葉を残しながら、その翌日再会できるように犀川を導いたりもする。結局凡人である我々は、天才である真賀田四季、そして森博嗣の掌の上で転がされるしかないのかもしれない。