汗牛未充棟

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桃野雑派『老虎残夢』――ミステリのお約束を次々と破壊、異色の武侠ミステリ!

 

 

 「広い意味の推理小説」を募集する江戸川乱歩賞。今年度第67回は、伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』(「センパーファイ―常に忠誠を―」改題)と、今回紹介する桃野雑派『老虎残夢』の二作が同時受賞した。公式の惹句には「館×孤島×特殊設定×百合」と心躍るワードが並んでいるが、本作が賞を勝ち得た一番の要因は、なかでも「特殊設定」にあるのではないだろうか。

 物語の舞台は南宋時代の中国、湖の中心の小さな土地に建てられた八仙楼という館。この八仙楼には梁泰隆という名の武侠と、彼の弟子である蒼紫苑、そして泰隆の養女である梁恋華の三人が暮らしていた。あるとき泰隆が、弟子の紫苑ではなく、外部の武侠に奥義を授けるとして三人の武侠を八仙楼に招く。このことをきっかかに事件が起きてしまうのだが、この「武侠」という存在が本作を大きく特徴づけている。

 本作において武侠は「外功」と「内功」という二つの力を鍛える。「外功」とは筋力や持久力などの肉体的な力のことであり、武術家であればこれを鍛えることは当然といえるだろう。問題は「内功」の方である。作中の表現によれば、「身体の内側より生じる力(p.15)」を内功と呼び、「呼吸、血流、気脈などの経路を鍛え、人が持つ潜在能力である気を自在に操る(p.15)」ことができるのだそうだ。

 具体的に何ができるのかというと、これがあらゆることに応用が利く。外功と掛け合わせて攻撃力を倍増させるなんてことは序の口であり、自身の自然治癒能力を強化して回復を早めることもできれば、解毒さえ可能な場合もある。そんな万能ともいえる内功だが、さらに内功を鍛え続けた武侠は「軽功」という極意を手にする。「軽功」とは「気脈の流れを操り、己の体重を極限にまで減らし、羽のように身を軽くする技である(p.13)」というのだが、この「軽功」がミステリのお約束を悉く破壊していくのだ

 例えば密室環境での殺人を扱ったミステリ作品は多くあるが、その中の一つのパターンとして雪の密室というものがある。要は被害者に近づくためには必ず雪の上を歩かなければならないが、あるはずの足跡がなぜかないといったような状況のことだ。しかし内功を極めた武侠には、そんな理屈は通用しない。なぜなら軽功によって極限まで体重を軽くすることによって、足跡を残さずに雪上を歩くことができるのだ。

 それだけではなく、軽功を使えば水面を走ることさえも可能だ。実は湖の中心に建つ八仙楼には橋が架かっておらず、孤島といっていい環境にあるのだが、軽功が使える武侠にとっては地続きに建っているのと変わらないといえるだろう。

 また、現実ではなかなか聞かない毒殺というのもミステリ作品ではよく起きる。しかし前述したように内功は解毒も可能であり、武侠は毒を盛られても自動で解毒を始めてしまう。こうなると、予め毒を盛っての時間差殺人というのも難しいだろう。

 このように羅列するとアンチミステリ作品なのかと思われるかもしれないが、決してそんなことはない。同じ武侠といえど、それぞれに得意不得意のある容疑者たちに対し、"誰"が"何"をできるのか、慎重に探っていくところに本作のミステリとしての醍醐味があるのではないだろうか。「論理的に真相を解き明かしていくスタンスにはブレがない(p.324)」ことは賞を与えた選者の保証するところである。

 そんな不思議な力を使う武侠たちは、それぞれ個性的かつ魅力的に書かれていて、ミステリ要素を抜きにしても読んでいて楽しい。大きな争いもなく、貿易によって栄えていたという南宋時代の空気感も合わせて、もっと彼らの物語を読んでみたいと思える良い小説だった。